猫の書斎2

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経済成長第一主義でいいの? GDPから考える幸せ

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『幻想の経済成長』

「経済が成長することはいいことか?」


と聞かれたらどう答えるだろうか。


何を聞いているんだ、ボンクラ! 経済が成長するのは良いことに決まっている。経済が成長していれば、給料が上がり、自由に使えるお金や時間が増え、教育や趣味を充実させて、人生が豊かになり、ひいてはみな幸せになれる。そう、思われるかもしれない。しかし、この本を読めば、この質問に答えるのはそう簡単ではないことがわかってくる。


経済=GDP


上の質問を考えるうえで避けて通れないのが、「経済とは何か」を定義することである。それでぼくがまっさきに思い浮かんだのは、「経済とは、何かを買ったり売ったりしたときに動く金銭を足し合わせたもの」だ。本書を読んだ後から見ると、この答えもそんなに悪くはないと思えるが、大事なのは経済を「誰が」どう定義するかである。一般市民であるぼくが「経済とはこうである」と机をドンドン叩いても大して意味はない。問題は「世間」や「国」が経済とどう捉えているかなのだ。


それでどう捉えられているのかというと、「経済=GDP」なのである。


その心は、「経済」という言葉は測定できるものとして生まれてきた概念であるということだ。本書によると、本来の経済(エコノミー)は、「節約」という意味しかなかった。つまり、「経済的だね」という風にしか使えなかった言葉らしいのだ。「経済」活動などのような意味をこの言葉が持つようになったのは、第二次世界大戦中に、アメリカが自国の戦費を調達する力がどれだけあるかを測るために、GDPという指数が生み出したことに起因する。

 
時代が下ると、国の戦費調達能力を示すGDPは国の経済力を示す数値としてひとり歩きするようになった。問題はそのGDPに何が含まれ、何が含まれないかである。いまでは単純に国の経済規模を示すものと思われているが、戦時中生まれのGDPにはとうぜん軍事費が含まれている。


さあ、「経済成長はいいことだ」という常識に暗い影がかかってきた。何しろ、戦争を行なうための費用がGDPに含まれているということは、戦争をすればするほどGDPは大きくなり、GDP=経済なので、「経済」も成長していることになるのだ。経済(GDP)は戦争がお好き、なのだ。これ自体は割とよく言われていることだと思うが、GDPという形ではっきりと捉えられていることには目からうろこの思いだった。


本書では、他にもたくさんのGDPのダークサイドを豊富な例で見せてくれる。例えばこんな感じだ。

 

1987年に、イタリアは一気にイギリスを抜いて世界第5位の経済大国に躍り出た……その背景にはある理由があった。イタリアの統計当局が、課税逃れで悪名高い巨大な地下経済の実態把握を向上させ、統計に加算するようになったからだ。その結果、経済規模は18%も急拡大したが、それは少なくとも部分的にはマフィアのおかげと言えた。
・・・
タバコが社会全体に及ぼす「隠れた負担」――健康被害、医療費、早すぎる死――は、誰の目にも明らかであるのにもかかわらず、経済貢献の避けられない副産物として容認されている。さらに、結果的に生じる病院での医療措置や癌の治療もまた、国内総生産に貢献するのだ。
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自己負担なしで医療を提供するイギリスの国民健康保険サービスの経済への貢献を増やすには、あらゆる医療資源の投入量(コスト)を増大させる必要がある。医師と看護師の給与を引き上げ、製薬会社に支払う薬価を上げ[る]……別の言い方をすれば、公的医療サービスの経済への貢献――従来からの計算方法を用いた場合――を増やす唯一の方法は、その効率性を低下させることにあるのだ。
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国連の国民経済計算体系は、GDP聖典と言ってもいい会計原則だが、このスプレッドから生じるとされる経済価値を測定するために、1993年の改訂版からは新たな会計概念が導入された。…結論から言えば、スプレッド[上乗せ金利]が広ければ広いほど、創造された経済価値も大きいと判断されることになる。だが、これでは話があべこべだ。金融業では、リスクが大きい商品ほどスプレッドが広くなる。銀行家が顧客にローンの返済能力がなさそうだと判断した場合、債務不履行のリスクが高い分、それに見合う高い金利を貸すはずだ。従って、国民経済計算の観点から言えば、ローン・ポートフォリオのリスクが高ければ高いほど、経済成長に貢献していることになる。言い換えれば、銀行家が破滅的なまでに無責任であればあるほど、私たちは、彼らが経済成長を促進していると判断しているわけだ。


ここまで読むと、「経済成長は良いことだ」とは手放しに言えなくなる。何しろ経済とは、いまのところGDPで測ったものそのものと捉えられているからだ。「経済が成長した」と言われたら、企業が良い商品を生み出し売り上げを上げ、消費者は良い商品やサービスにたくさんのお金を払って、お金が循環が起きていると思いがちだ。でも、GDPで測定している以上、良くないことで経済が成長していることだって往々にしてあり得るのだ。戦争や犯罪や災害が起こっても、公的サービスの無駄が拡大しても、国民が不健康になっても、経済は成長する。むしろ、それらが悪質で、甚大であるほど、経済は大幅に成長する。


一方でGDPには、豊かな自然環境や天然資源、職業の安定、自由時間や余暇の拡大、優れた教育など、明らかに社会にとってプラスとなる要素は、お金が動かないという理由でGDPには計上されない。それどころか、GDP(経済)の成長だけに目がくらむと、自然を破壊し資源を再生不可能なレベルで浪費すれば比較的簡単にGDPを上げられることに気づく。教育費がバカ高くなったり、公共事業が民営化がされ国民が高いインフラにあえいでも、長時間労働で国民の幸福度が下がっても、GDPは上がる。つまり、GDPが上昇しても、ぼくたちの生活が良くなるとは言えないのだ。むしろ国民の幸福度を下げたほうが簡単にGDPは上がりそうだし、ニュースを見ていると、じっさいにそうなっているとさえ思われる。


こんな不備だらけのGDPなのに、世界のほとんどの国や人々はGDPをを経済成長を測る指数として崇めている。それは、ぼくたち一般人のなかにも、知らず知らずのうちに浸透している。GDPが〇%成長などと聞くと、景気が良くなったと一息ついたり、気分がよくなる人もいるのではないだろうか。だがその実態はよく見てみないとわからない。銀行がサブプライムローンのような無謀な貸し付けを行なっても経済は成長する。そしてそれは、ぼくらの生活を豊かにするどころか、破綻したメガバンクへの公的資金注入という形で国民生活を圧迫するかもしれないのだ。


GDPさえ成長していればいいという風潮は、その実態を覆い隠してしまう。経済は成長しているはずなのに、一向に生活が上向かない、格差が拡大しているような気がする、そう感じたら、GDP以外のものにも目を向けなくてはならない。この本は、そんなGDP崇拝の恐ろしい実態を描くほか、そもそも、経済が豊かになることが本当に幸福につながるのかという哲学的な問いにも経済学の観点から考えさせてくれる。


数字を絶対視しないために


この本を読んで実感するのは、数字(統計)の恐ろしさだ。


ぼくは、GDPの実態を知らないまま、経済が成長すること、GDPが増加することはいいことだと刷り込まれていた。こういうふうに具体的な数値をもって、「この数値が改善することが目標だ」と言われると(そういう空気が醸成されると)、「目標=良いこと」と捉えてしまう。そうなると、その目標自体に疑問を持たなくなる。


これは学校教育にたとえられると思う。「学校の成績が伸びることは良いことだ」と思いがちだ。とくに子供にしてみたら、それは絶対的な原則だ。それ以外の指標はほとんど与えられないのだから。けれどそれがすべてではないことは誰もが認めることだと思う。芸術家や職人、エンターテイナー、起業家には学校教育の成績はそれほど重要ではない。もちろん、義務教育のおかげで社会生活を円滑にできるようになるし、学校では学業以外についても学べることがたくさんあるが、みながみな、必死に受験勉強し良い大学を目指す必要はない。はっきり言われることはないが、小学校から大学までのコースは、良い人生を送るためというより、良い会社員や公務員になるための訓練をしていると考えたほうがしっくりくる。時間通りに登校し(出社し)、校則(社則)を守り、決められた評価体系で上位を目指し(売り上げを上げることに血道をあげ)、イベントで団体行動する(部門や会社単位で和を乱さないようにする)。


成績(数字)にばかり気を取られていると、このことには気づけない。「経済成長は良いことか」と同じ「成績向上は良いことか」という疑問に、「良いことに決まっている」と即答するようになってしまうのだ。生きる道はそれだけだけではないし、そもそも、学校の成績も経済の成長も、幸せになるための手段であるはずだ。数字が目標として掲げられると、それがいつの間にか、目的となって大手を振るようになる。


だから、具体的な数字(統計)を見たときには自分に問いかけるようにしたいと思った。「この数字を測る目的は何?」「その数字が改善すると、本当に大切なこと[幸福など]も良くなる?」と。本書はGDPを例に、数字の奴隷にならないために取るべき姿勢を教えてくれる本でもある。