猫の書斎2

本と猫のことを中心にいろいろと書きます

指揮者は音楽家でパイロットで管理職

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『指揮者は何を考えているか』
指揮者と言われて、ぼくがまず思い浮かべるのはテレビドラマだ。たとえば、「それが答えだ!」では三上博史が性格に難があり指揮者を首になった男を演じ、「のだめカンタービレ」では玉木宏が指揮者を目指す音大生に、竹中直人が世界的マエストロ(プロの指揮者をそういうらしい)に扮した。
 
そこで描かれている指揮者は、バラバラで問題だらけのオーケストラを音楽的才能と人間力でまとめあげ、ぐちゃぐちゃだった演奏を感動的な演奏に変えていく超人的な存在だ。ドラマで描かれている指揮者は一癖も二癖もある変人だけれど、音楽には真剣で、演奏の指導は親切丁寧。すべての楽器に造詣も深く、「バイオリン、ここはこの指で、こうこうこう弾いてみろ」などというと、魔法でもかけたかのように演奏がよくなって、弾いている本人たちも目を丸くする。こんなことはドラマだけだとわかってはいても、アマチュアオーケストラに参加していたことのあるぼくは、こんな指揮者がいたらなあ、と思ったものだ。なにしろ素人が下手の横好きでやっている集団だったので、指揮者のちょっとした一言で、演奏が劇的に上手になったらなんといいことか、と思ったわけである。でもよく考えてみると、これは指揮者というより、指導者、インストラクターだ。プロのオーケストラでは、楽器を弾いている人たちもプロ。プロの演奏家に、楽器演奏においては素人の指揮者が技術的に指導することは何もないはず。そうなると、上に挙げたドラマではプロの指揮者についてはわかることはなにもないのではないか(あたりまえだけれど)。じゃあ、プロの指揮者はどういうことをしているのか?
 
何となくそんな疑問を感じていたので、本書を書店で見つけたとき思わず手に取った。
 
そしてイントロを読んでますますわからなくなった。
 
イントロは「ニューヨーク・タイムズ」に掲載された、ふたりの指揮者の死亡記事から始まる。ひとりは、ピエール・ブーレーズ。パリで「申し分のない音楽教育を受け」た正真正銘の指揮者だ。もうひとりは、ギルバート・キャプラン。こちらは、経済誌の創刊者として巨万の富を得た実業家で、楽譜の読み方もろくに知らなかったずぶの素人。この2人には、しかし、共通点があった。なんと、2人ともウィーン・フィルを指揮して、マーラー交響曲第二番『復活』を演奏したことがあるのだ。しかも、キャプランはさまざまなオーケストラとの共演で『復活』を100回以上演奏し、ロンドン交響楽団ウィーン・フィルとは録音まで行なった。

 

キャプランはたぐいまれな音楽的センスをそなえた指揮の鬼才だったのだろうか? そうかもしれない。でも著者は言う。
 
…指揮は、皆さんが考えているより大変な仕事であると同時に、それほど大したことのない仕事でもある…
 
なかなか、魅力的なイントロである。「指揮者って、結局なにやってるの~?」と疑問をくすぐられっぱなしだ。
 
でも、本書を読み終えたいま思う。この言葉はなかなか言い得て妙だ。それはどういうことか。
 
まず、「それほど大したことのない仕事」という部分に注目してみたい。この言葉はもちろん、現役指揮者である著者の謙遜でもあるのだが、ポイントは「それほど」の部分だと思う。私たち一般人は指揮者をとてつもない音楽的才能と個性を武器にオーケストラにユニークで素晴らしい演奏をさせる芸術家と思っているけれど、本当の芸術家は作曲家であって、指揮者は作曲家の手伝いをしているだけだ。小規模編成の曲やリズムが比較的一定の曲を演奏する場合は、指揮者なしでもまったく問題がない。演奏家たちはプロなわけだから、彼らだけでも十分に素晴らしい演奏ができてしまうのだ。だからといって、指揮者に大した役割がないといっているわけではない。大規模なオーケストラを必要とする複雑な曲(特にオペラやバレエ)では指揮者なしではとても演奏が成立しないし、作曲はできても指揮はからきしという作曲家もいるのだから、誰かが指揮をする必要がある。そして、楽器間のバランスを調整したり、身振りだけでリズムや強弱の付け方を伝え、大勢の演奏家を統率するのには、その道の努力と才能を要する。でも、指揮者は何をやっているかわからないので、何かとてつもないことをやっているはずだと一般人が考えるほどには「大したことのない仕事」なのかもしれない。この本は、何をやっているかよくわからないので、つい神聖視してしまう指揮の神髄を指揮者本人が言語化している。実は、指揮者の仕事に求められることは芸術というより、対人スキルだったり学問的努力だったりと、意外に地味な印象だ。
 
次は「皆さんが考えているより大変な仕事」についてだが、この本は丸々一冊このことについて書かれているといってもいい。なので、印象深い話をピックアップするにとどめる。
 
まずは、演奏中の不測の事態に直面したときに問題を収集して、演奏がストップしてしまわないようにするという管理責任者のような役割がある。著者がある歌劇を指揮した時のことだ。この歌劇は、舞台上でソリストが歌っているところに、舞台袖に控えていた楽器演奏家聖歌隊が聖歌の演奏を始めて舞台に合流するという場面がある。著者はオーケストラピットでオケの指揮をしている。そして、聖歌隊が舞台に登場した時、なんと、聖歌が1小節遅れていた。これを放置しておけば、いずれ破綻してどこかで演奏がストップしてしまう。ここで著者は超人的な能力を発揮する。コンサートミストレス(1stバイオリンのトップ)に「1小節追加する」と告げ、左手で弦楽器奏者への指揮を続けながら、右手で管楽器奏者に対して掌を力強く突き出し「待て」と伝えて、1小節管楽器の演奏をストップさせた。その後、管楽器の演奏を再開させ、今度は弦楽器奏者に同様のポーズで「待て」と伝えて演奏をストップさせ、1小節待たせててからふたたび演奏をスタートさせた。そうしてオケの演奏をちょうど1小節遅らせ、聖歌隊の演奏に合わせたのだ。この対処に失敗していたら、何百人もの観客の前で演奏がストップし、会場はしらけ、劇団やオケは大恥をかく。そして指揮者がその責任を問われるだろう。指揮者には音楽的な才能のほかに、旅客機のパイロット並みの判断力も要求されそうだ。
 
次に紹介するのは、もう少し指揮者のイメージにあうもの――曲の解釈だ。曲の解釈などというと難しい話になりそうだが、「少し視点を変えてみよう」と言って著者はわかりやすい例を引く。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの有名な小説『ジキル博士とハイド氏』の「ジキル」は、実は正しい発音は「ジーキル」である。けれど、すでに「ジキル」という発音で知れ渡っており、みなこちらになじんでる。ある日、この本の朗読会が開かれたとして、言語的な知識の豊富な朗読者が「正しく」、ジーキル博士と発音して朗読したとする。観客はどう思うだろうか。「ジーキルなんて変ね。ジキルなのに」だ。専門的にどんなに正しくても関係ない。これと同じことがクラシック音楽でもあるという。著者がマーラー交響曲四番を指揮したときのことだ。第一楽章の冒頭は「そりの鈴」の音とフルートが3小節、8分音符を刻みながらかわいらしい音を立てているところに、3小節目の後半からバイオリンが新しいメロディーを奏で始める。そのときバイオリンの楽譜には、いきなり「リタルダンド(少しだけゆっくり)」と書かれているが、8分音符でそりの鈴を刻んでいる鈴とフルートにはリタルダンドが付いていない。つまり、同じ曲を奏でながら、楽器によってテンポが異なるのだ。これは従来のセオリーに反するのだが、そうすることで、そりが通り過ぎていく様子を描いたと考えた著者は楽譜通りに演奏することにした。けれど、それまでマーラーの四番はすべて、全楽器がリタルダンドして演奏されており、みなそれに何の疑問も持たずなじんでいた。するとどうなったか。
 

翌日、地元の新聞には次のような記事が載った。「交響曲第四番のチャーミングなメロディーに付けられたリタルダンドをいかに優雅に演奏するかで、指揮者がマーラーの音楽を理解しているかどうかわかるものだ。残念ながらマウチェリ氏〔本書著者〕の場合は……」、後は容易に想像がつくだろう。

 

指揮者は、演奏する曲や作曲家の研究を真摯に続け、その結果を演奏として発表するのだが、それが受け入れられるとは限らない。それがどんなに正しくても。でも、作曲家はそう意図したのだから楽譜通りに演奏すべきだ、と思うかもしれないが、クラシックの作曲家はもう死んでいることが多くその真意を確認しようがないし、エンターテインメントである以上、観客の反応や興行成績がきわめて重要になってくる。指揮者は、音楽性とビジネスとの間でうまくバランスを取ることが要求されるのだ。
 
そのほか、指揮者にはホールごとに異なる音響効果や技量の異なるオーケストラでも、作曲家の意図に合うように演奏を調節することが求められる。特定の楽器のボリュームを大きくしたり小さくしたりといったほか、楽譜に多少変更を加えたりすることもあるのだそう。また、主張の強いソロのオペラ歌手や演出家、作家、バレエダンサーなど意見をまとめ、公演を成功させることも求められる。こんなふうにさらっと書くと当たり前のように感じるが、オペラのソリストが有名で発言力が強かったりすると、演出家の意見が気に入らないから降りると言いだしたり、ソリストを立てると今度は演出家が来なくなったりと、なかなかのドロドロぶりだ。こんな我の強い芸術家たちをまとめることまで求められるのだから、指揮者は楽じゃない。指揮者には、音楽的センスだけでなく、パイロットのような判断力、スーパー管理職のような人間力までも求められるのだ。
 
本書を読むと、指揮者を見る目が変わる。けれど、指揮者は超人的であるという印象は変わらなかった。