猫の書斎2

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暗号の進化史

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サイモン・シン『暗号解読』

「暗号」というと、ぼくのような平凡な人間には、コンピューターの通信で使われているもの、という程度のイメージしかない。暗号はネットで買い物をするときにサイトと端末との間の通信で使用されるし、スマホやPCがワイヤレスで当たり前につながるようになった今、家庭で使用するルーターとの通信にも使われる。暗号はかつてないほど一般に、身近になっているが、ぼくはその実態をよく知らなかった。そんな身近なものなんだから、暗号の何たるかをちょっとは知っていおいたほうがいいんじゃないか、と思い手に取ったのが本書だが、それは大正解だった。本書を読んで、暗号の基本的な考え方をよく理解できた。でも、何よりよかったのは、暗号がいかに利用され、解読者との競争でいかに進化してきたか、そのドラマチックな歴史を知ることができたことだ。

 

暗号は、コンピューターという現代的なイメージとは裏腹に歴史が古く、いや、というよりも長い歴史そのものを動かしてきた存在であさえある。とくに、戦争との関連が大きい。戦争中に軍は戦況の報告や奇襲攻撃の命令など、大量のメッセージをやり取りしていた。だが、そのメッセージが傍受されれば、敵にこちらの動きが筒抜けになる。そんな時に活躍したのが暗号だ。戦争と暗号と言えば、映画『イミテーション・ゲーム』で描かれた、第二次世界大戦中の暗号解読ドラマが有名。ドイツが開発した難攻不落のエニグマ暗号の解読に、イギリスの数学者アラン・チューリングが自分で設計開発した機械式コンピューターに計算をさせて、暗号解読のキーを探し出す。チューリングは現代的なコンピューターの概念を生み出した天才で、しかも、暗号解読しなければ祖国が攻め滅ぼされるという状況下で、だれも考えもしなかったコンピューターを作って、それに暗号のキーを探させるなんて、すごすぎ。でも、戦争で暗号が使われたのは、紀元前にまでさかのぼる。紀元前5世紀に起こったギリシャペルシャの戦争で「秘密の書記法」が使われたことが、ヘロドトスの著書『歴史』に書かれている。メッセージを彫った木の板の表面に蠟を塗って、文書を隠したのだ。これは今の暗号の考え方とはちょっと違うけれど、メッセージを盗み見られないようにしようという意図は同じだ。

 

 さて、サイモン・シンの『暗号解読』は一般向けに書かれた暗号の本で最高峰と呼び声が高いが、そのわけは本書のストーリー構成にあると思う。つまり、著者の語りがべらぼうにうまい。

 

本書の「はじめに」で、著者はこの本の目的を暗号の進化史(つまり歴史)を書くこととしている。ところが、著者は記録されている中で最も古い、ギリシャペルシャの戦争で使用された「秘密の書記法」から話を始めたりはしない。第1章はこんな書き出しから始まる。

 

1586年10月15日、土曜日の朝。スコットランド女王メアリーは、見物人の詰めかけたフォザリンゲイ城の法廷に足を踏み入れた。長きにわたった幽閉生活と、その間に患ったリウマチとに痛めつけられながらも、メアリーは威厳と落ち着きを失うことなく、有無をいわせぬ王者の風格を漂わせていた。侍医に支えられながら、裁判官、役人たち、そして見物人の前を通り過ぎたメアリーは、細長い部屋の中ほどに据えられた王座へと近づいた。自分の敬意のしるしと思ったその王座は、しかし、彼女のためのものではなかった。その王座は、その場にはいないエリザベス女王、メアリーの敵であり告発者である人物の象徴だったのである。

 

女王メアリー? 法廷? エリザベス女王? 暗号の本なのになぜ?と、好奇心をくすぐられて、一気に引き込まれる。被告のメアリーが無罪になるか有罪となって死刑に処されるかは、メアリーが協力者とやりとりしていた密書の暗号を、エリザベス女王側の官僚たちが解読できるかどうかにかかっていた。

 

なぜメアリーはそんな立場に陥ってしまったのか、どんな暗号が使われていたのか、その解読は容易なものだったのか。そんな疑問を読者に植えつけてから、ヘロドトスの『歴史』の話に入る。しかしなぜ、紀元前から始まる暗号の歴史を語るのに、16世紀のメアリーの話を引き合いに出すのか。単にそれがドラマチックな出来事だっからという単純な理由ではない。

 

じつは、紀元前から16世紀に入るまでに長い間、ヨーロッパでは暗号の基本的な考え方がほとんど進化していなかった。広く使われいたのは、転置式暗号と換字式暗号だった。転置式暗号は文字を入れ替えるというもの。たとえば、ABCDEFGHIJKLMNという元の文をACEGIKMBDFHJLNなどにする。前半部の「ACEGIKM」は元文が一つ飛ばしになっていて、後半部の「BDFHJLN」は元文の2文字目から一つ飛ばしになっている。つまり、元文を一つ飛ばしにして二つに分けたものをくっつけたのだ。換字式暗号はアルファベットの並びをずらしてしまえ、というもの。たとえば、ABCDEFG…というアルファベットの並びをFGHIJKL…に変えてしまう。すると「cafe」は「hfj」となる。実際はもっといろいろと工夫され、もう少し複雑でありながら、正規の暗号受信者が読みやすいように工夫されている。そんなふうに正規の受信者が読めるようにした工夫を「キー(鍵)」というのだが、このキーがバレれば、この暗号はいとも簡単に破られてしまう。しかし、キーがわからなければ暗号は完全に安全と考えられていたのだ。

 

この安全神話をくつがえした出来事が、あのメアリー女王の裁判だった。この意味で、メアリー裁判は歴史的に意義深いのだ。でも、どうやってエリザベス女王陣営はメアリーの暗号を解読したのだろうか? こんな風に、印象的な歴史の転換点と、ロマン感じさせる時代背景を巧みに選び、読者の興味を引き出したところで、しっかりと暗号の基礎とその歴史を説明。そして、暗号化された文書ってキーがないとまったく読めないじゃないか、と思わせたところで、エリザベス女王の手先がいかに解読法を見つけだし、いかにメアリーを追い詰めていくか、推理小説さながらの展開で読ませる。もう、ページをめくる手が止まらなくなること必至だ。

 

本書は、巧みな語りで読者を飽きさせず、ギリシャペルシャ戦争から、第二次世界大戦エニグマ暗号解読はもちろん、現代のコンピューターネットワークで使用される実質的に解読不能な暗号、さらに未来の量子コンピューターによる暗闘解読と物理法則的に解読不能な暗号化システムまで、その進化史を描く。

 

この本を読んでおもしろいと思うところは、純粋に暗号の仕組みや解読の方法ではない。確かに巧妙な暗号の原理やそれを出し抜く解読法の発明には脱帽するけど、その純粋な理論だけでは読んでもつまらない。また、暗号や解読方法の歴史自体がそれほどおもしろいわけでもない。時系列に書かれた歴史書は強力な睡眠薬であることを考えると、わかってもらえると思う。

 

じゃあ、本書の何がそんなにおもしろいのか。それは人間ドラマだと思う。メアリー王女の境遇にも同情してしまうけれど、エリザベス女王の手下たちがスパイ活動や暗号解読技術でメアリーを追い詰めていくさまには手に汗握ってしまう。暗号を過信し破滅してしまった人たち、解読不能とされた暗号に果敢に取り組み、解読にみごと成功した人たちのドラマ。本書は、そんなドラマに引きつけられ読み進めていくうちに、すっかり暗号の基本的な考えが身についてしまうという、超優良暗号入門書だった。