猫の書斎2

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ゲーム文化の基礎をつくってくれたファミコンの歴史

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ファミコンとその時代』

ファミコンとその時代』(NTT出版


ファミリーコンピュータの開発担当者みずからが、「ファミコンとは何だったのか?」という問いを立てて、時代背景やゲームの歴史に照らして、ファミコンが与えたインパクトを考証していく本だ。


「今さらファミコン」とか「たかがゲーム」、とあなどることなかれ。ファミコンがいかに時代の流れと密接に絡み合って登場したのか、遊びや社会のあり方を一変させたのかを内部の視点から考察した名著だ。


まず確認しておきたいのが、ファミコンがいかにすごいゲーム機だったかということ。
1983年の発売から2003年に販売終了となる20年の間に、世界累計販売数6191万台、ソフトウェアの累計販売数は5億本を超える。この数字自体、非常に印象的だが、実はwiiのほうがファミコンの実績を上回っているし(それぞれ8936万台、7億5254万本)、プレステファミリーには1億台を超す機種が複数ある。


でも、ファミコンスーファミ以降のあらゆるゲーム機が、決定的に違うことがひとつある。それは、ファミコンが今の巨大な家庭用テレビゲーム市場の生みの親だったということだ。


それは、ファミコンが初の家庭用テレビゲーム機という意味ではない。むしろファミコンは家庭用テレビゲーム機としては後発組だ。それどころか、ファミコンが世に出る直前は、「家庭用テレビゲームは終わった」とさえ言われていたのだ。なんとも早計な言説で、ぼくたち現代人は過去を振り返る未来人という有利な立場から、「まだ始まってもいねーよ」と当時の人の見識のなさに噴き出しそうになる。でも、そう考えるのものもっともな状況だった。

 

ファミコン以前


日本では、アメリカで起きたビデオゲームブームを受けて、エポックが1975年に「テレビテニス」というテレビにつないで、画面の中のボールをテニスのような要領で打ち合うゲームを発売する。ソフトを交換すればいろいろなゲームを遊べる今とは違って、この1種類のゲームしか遊べなかった。これが日本初のテレビゲーム機である。その後、アメリカで家庭用ビデオゲーム機向けに開発されたLSIを輸入して、日本向けにゲーム機を販売するメーカーがつぎつぎにゲームビジネスに参入し、1977年に日本初のテレビゲームブームが巻き起こった。


こうしたメーカーの中で、ゲーム機の歴史上見逃せない動きをした会社があった。当時、日本では、半導体産業の稼ぎ頭である電卓の需要が一巡したことから、ポスト電卓として家庭用テレビゲーム機が次なる目玉として業界の期待を集めていた。そうしたテレビゲーム用のLSIを開発した電卓メーカーの1社が、経営不振に陥り、せっかくつくったゲームの商品化を断念せざるを得ない事態になってしまった。しかし、ゲームの開発は完了している。そこで、このゲームのLSIを、当時、花札やトランプを主に扱っていた玩具会社、任天堂に販売することにした。1977年、ゲームLSIを購入した任天堂は「カラーテレビゲーム6」と「カラーテレビゲーム15」として発売し、二つ合わせて累計販売台数100万台を超すヒットを記録した。そう、任天堂の輝かしきテレビゲームの歴史は、持ち込みの企画から始まったのだった。(ちなみにカラーテレビゲーム6は6つのゲームが遊べ、カラーテレビゲーム15は15のゲームが遊べるマシンで、今のように新しいゲームを追加して遊ぶことはできない)


ここまでヒットすれば、あとはいろいろなソフトが登場して一気に火が付く…、いまだとそんなストーリーになりそうだ。しかし、当時はどんなゲームが家庭で求められているのかよくわかっていなかったし、開発しているほうもどんなゲームが作れるのかもわからない試行錯誤の状況。75年から始まり、静かなブームを巻き起こしていた家庭用テレビゲームは、多くの玩具と同じように急速に飽きられ、早くも1978年にはブームはすっかり下火になってしまった。


次にブームを作ったのは、任天堂から発売された別のLSIゲーム「ゲーム&ウオッチ」だった。いわゆる携帯ゲーム機で、これも1つのマシンで1種類のゲームしか遊ぶことができない。ここでも後発だった任天堂は、子供用の玩具ではヒットは狙えないと考え、大人が持っても違和感のないゲーム機を目指して、1980年、時計機能を備えたゲーム&ウオッチを発売した(今ではゲーム機をオモチャとして扱うことを堅持している任天堂が当時は玩具のイメージを拭おうとしていたのが驚きだった)。ゲーム&ウオッチはヒットを飛ばし、1982年に発売した「ドンキーコング」でゲーム&ウオッチブームはピークを迎える。


ここまでのブームを見ると、日本では1975年に始まった電子玩具であるゲーム機はどんなにヒットを出しても、どんなに大きなブームを起こしても、しょせんは出ては消えを繰り返す単発の玩具でしかなかったのだ。


こういう状況にある1980年ころに自分がいると想像してほしい。カラーテレビゲームはたしかにヒットを飛ばしたが、たったの1,2年で下火になり、今ではすっかり過去のものになってしまった。今度はゲーム&ウオッチが子供だけでなく大人をも巻き込む一大ブームを巻き起こしているが、これも長続きはしないだろう。次に何が来るかはわからないが、しばらくは携帯ゲーム機の新製品がちょろちょろと出て、10年もするとゲーム機は懐かしい玩具として記憶されるだけの存在になってしまうのではないか。もしくは、一部の熱狂的なファンがついて、小さなメーカーが細々と発売を続けるニッチな商品になるのではないか。


当時の人がそんなふうに考えたがどうかはわからない。でも、直近の出来事から将来を予測しがちな人間の性質から考えると、テレビゲームが一度華々しくブームを巻き起こして下火になり、そのあと携帯ゲーム機がヒットを飛ばしたら、時代は携帯ゲーム機に移って、それもさらに別の何かに取って代わられると考えても不思議はない。テレビゲームは一過性のオモチャだったのだ、と。でも、実際にはそれとはまったく異なることが起きた。83年にファミコンが発売され、現在にまで続く巨大なゲーム文化が出現したのだ。


ファミコンというお化けマシン


ファミコンは発売当初からヒットを飛ばし、83年に発売してから1年間で123万台が売れた。カラーテレビゲーム、ゲーム&ウオッチに次ぐ大ヒットで、玩具メーカー任天堂はその好成績に社内が沸いたのではないだろうか。


しかし一方で、次のような見方も社内にあったらしい。

 

玩具の開発経験から推測すると、1984年のクリスマス頃に販売のピークを迎え、その後次第に販売量が減衰すると考えられ、総販売数は約300万台と開発者は推測していた。したがって、1984年7月頃には次なる商品企画が求められるのでは、というのが玩具開発の経験から出てきた予測だった。


ヒットを生んだ本人たちが、ファミコンを一過性のブームと考えていたのだ。300万台も売れれば、ゲーム機としては記録的なヒットだが、それに次ぐ新商品をまた一から考え出さなければならないと、歓喜と不安がないまぜになった悩ましい状況だったのではないだろうか。


でもその予想はある出来事をきっかけに、あっさりと裏切られることになる。


84年にファミコンの好況に引き付けられたハドソンとナムコの2社が参入してファミコンソフトを発売したことで、ファミコン任天堂専用機からプラットフォームに変化したのだ。つづく85年には、コナミタイトーエニックスカプコンスクウェアなど17社が参入し、ファミコンソフトがどんどんと発売されるようになった。1年目には9本しかなかったファミコンゲームは、2年目に累計29本、3年目には累計98本にまで膨れ上がった。ファミコン発売からわずか2年の出来事だ。年を追うごとに、参入メーカーはさらに増え、ソフトも大幅に充実し、87年にはファミコンの販売台数は1075万台に達した。


今では当たり前に言われる「プラットフォームビジネス」が自然に、開発元の任天堂でさえ予想しなかった形で実現されたのだ。このビジネスモデルの基本は、スイッチやプレステ4でも同じだ。そういう意味で、ファミコンは今の家庭用ゲーム機市場の基礎を築いたのである。


本書はファミコンがなぜプラットフォームビジネスとして成功し、テレビや雑誌、マンガなどあさまざまなメディアを巻き込みながら「ゲーム文化」とも呼べるものを作ることができたのかを、社会的な状況や技術的な側面を踏まえて考察している。膨大な資料と、開発者ならではの視点から論じられる考察にうなり、細かく描かれる時代描写のなつかしさに浸れる、ファミコン世代のゲームファンにオススメの一冊だ。


本書を読んでいて印象に残ったのは、ファミコンは「コンピュータ」だったんだ、ということ。リアルタイムで遊んだ人間としては、ファミコンはオモチャという認識が強かったが、名前にたがわず、それは確かにコンピュータだった。電卓から携帯ゲーム機、マイコンから据え置き型ゲーム機という技術トレンドの中で起こるべくして起こったブームだということがよくわかったし、ロムカセットの半導体ニーズが急増して、半導体産業にインパクトを与えたりと、産業という観点から見てもただのオモチャとは片付けられない存在だった。


さらに目を開かれたのは、ファミコン情報リテラシーの基礎になったという考えだ。ファミコン世代(1970年代以降生まれ)とその前とでは、パソコンやスマフォなどデジタル機器の操作やネットなどのデジタル情報の取得技能において、大きな差があるという(いわゆるデジタルデバイド)。その差を生むのが、ファミコンなどのゲーム機で、画面を通したインタラクティブな操作を子供のころから経験できたかどうかによると、本書は主張する。言われてみれば、確かにそんな気がする。ぼくの親はインターネットを使いこなせないし、スマホも最小限の操作しかできない。画面の中のポインタやアイコンを操作し、その操作に対してデバイスが反応をしたりさらに選択肢を出したりする。それを延々と繰り返して、新しい情報を画面に表示させる。この操作感覚はファミコンによって培われたのかもしれない。そう考えると、ファミコンの影響力は巨大なゲーム市場を立ち上げただけにとどまらず、来るべきパソコンやスマホ時代の基礎をも築いたと言えるのだ。

 

興味を持ったらーファミコンが教えてくれたこと

 

ファミコンとその時代』を読んで考えさせられたのは、興味が高まっているときにその対象に十分触れることの大切さだ。同書の終りの方でわりとあっさり書かれていたことが、気になっていろいろと考えを巡らせてみたところ、そういう結論に行きついた。
何の記述を読んだのかというと、画面を介してインタラクティブに機器を操作するという体験を提供することで、ファミコンが現代の情報リテラシーの基礎を築いたというものだ。その部分から引用してみる。

 

ファミコンが「ファミリーコンピュータ」と呼称される所以は、テレビ画面とコントローラーを介した情報のインタラクティブなやりとりを、ゲームという娯楽を通して行わせているからに他ならない。一口にテレビゲームを遊ぶと言っても、そのためには「テレビの画面を見て、瞬時に情報を判断し、必要な選択を行って、コントローラを操作し、結果を確認する」という、高度で複雑な情報処理能力が継続して求められる。……「十字キー」と複数のボタンを組み合わせて選択と決定を繰り返す情報操作法は、現在においてもテレビのコントローラや携帯電話をはじめとして非常に多くの情報機器の標準的な操作方法になっている。


ぼくは、小学生の時にファミコンブームを体験した。ファミコンに熱中したので、上の引用部分に書かれていることを毎日のようにこなし、まったく気づかないうちに、情報デバイスインタラクティブに操作することになじんだ。それって、べつに大したことじゃないんじゃ…、あの時代みんなそうやっていたんだから、と思われるかもしれないので、前掲引用部分の続きも読んでほしい。

 

こうして、一九八〇年代以降、子どもたちが最先端のコンピュータデバイスを難なく操作するのに対して、多くの大人たちがそれに困難を覚えるという情報機器リテラシーに対する世代的ギャップが生まれていく。その発端となったのがファミコンであった。


ファミコンを操作するなんて、確かに誰にでもできることだが、「誰もがやりたいと思うこと」ではない。ぼくの両親はファミコンで遊ぼうとはしなかった。ファミコンを通して、情報デバイスを操作する訓練を積むことができなかった両親は、いまもスマホの操作に苦労しているし、パソコンにいたっては電源ボタンを押す以外のことは何もできない。べつにファミコンで遊んだ経験がなくても、「このデバイスを使いたい」という思いが強ければパソコンやスマホは扱えるようになる。でも、何ができるのかを実感として理解していない人に、いきなりパソコンやスマホを渡しても、苦労してその操作を学ぼうとは思わないのではないだろうか。そういう意味で、ファミコンという遊びを通して、情報デバイスの操作になじめたのはデカいと思うのだ。


ぼくはちょうどいい時にファミコンに出会えたと思う。ぼくはライトなゲーム好きなので、高校生くらいのときにはほとんどテレビゲームをやらなくなっていた。もし高校生や大学生のときにファミコンブームを迎えていたら、興味本位で手を出すことはあっても、マリオの操作に四苦八苦して、ゲームにのめり込むことなく早々に脱落していた可能性が高い。だから、ファミコンがあの時期に発売されていなかったら、ぼくはデジタルデバイドされる側にまわって、いまもガラケーにしがみついていたはずだ。
そう確信する理由は、パソコンでは出遅れたからだ。


小学生高学年から中学生の頃に、ぼくはパソコンに猛烈に興味があった。でも、両親はパソコンに興味を持っておらず、それどころか、いまスマホを拒否する人のように、むしろ当時出始めたばかりのパソコンを嫌悪していたと思う。だから当然、うちにはパソコンがなく、買ってくれとせがんでも一向に買ってくれなかった(もちろん、高額だったということもある)。


ところがゲームと一緒で、高校に上がるころからパソコンへの熱も急激に冷めてきた。まあ、かつては熱烈に興味があって、電気店で何時間も眺めたりしたくらいだから、友人の家にパソコンがあったらうらやましいとも思ったが、それよりもコンポやウォークマンの方に関心が移っていた。だから、自分のパソコンを持ったのはかなり遅れ、社会人になってからだった。そうなるとパソコンもはもうただの道具だ。パソコン自体への興味はほとんどなく、それでできることにしか関心がない。というか、それ以外何をしていいのかわからない。もし、パソコンそのものに興味があった小学生や中学生のとき触れられていたら、プログラムに親しむことができたかもしれないし、いまのビッグデータ人工知能などのトレンドについて行けていたかもしれない。


ここまで考えたときに、「興味が高まっているときにその対象に十分触れることは大切だな~」と思った。興味が高まっているときには、普段なら苦になるようなことも平気でできる。それも長時間飽きもせず。そうやって繰り返し興味の対象に触れているうちに、対象そのものを楽しめるだけでなく、それに付随して求められる操作や認知能力、思考能力が鍛えられていく。興味のないものに取り組んでいても、そういう意識して学ぶことが難しい能力や考え方はほとんど身につかないのではないか。だから、ゲームでもなんでも興味のある物を興味のあるうちにとことん追求するのは素晴らしいことだ。「あっ、おもしろそう」と思ったものは、「後で」とか考えず、ぱっと手に取るようにしたい。よし、しばらくはレトロゲーム本を読み続けよう。