猫の書斎2

本と猫のことを中心にいろいろと書きます

科学的よりも科学する人でいたい

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『科学する心』

最近、世の中の考え方がますます「科学的」になっているような気がする。スマホやインターネット、ドローン等々、魔法のようなテクノロジーが周囲にあふれ、日々その恩恵の浴しているぼくたちはそういう技術の基礎になっている科学に最大級の敬意を払っている。

 

というか、そうせざるを得ない。その圧倒的な力の前では、科学の負の側面を叫んでもむなしく響くだけだ。

 

またTwitterなどで、非科学的なことや根拠薄弱で主観的な主張を投稿しようものなら、たちまち科学的な自警団に袋叩きにされてしまう。「似非科学!」「ソース出せ!」と。間違った健康情報で被害を出したり、商品を売るために偽の情報を流したりすることは昔からあって、ネットではそれが増幅されるような現実もあるから、そうしたちょっと過剰とも思える反応も仕方ないのかもしれない。

 

でも、日本人はいつからこんなに科学的になったんだっけ?と不思議に思ってしまう。

 

ぼくの親世代(現在70歳前後)は、すくなくとも両親の周りの人間はもっとぜんぜん非科学的だ。冠婚葬祭はもちろん、大きな行事を行なうときは日どりを異常に気にする。今の人も多少は気にするだろうが、「葬式は友引がダメなんだっけ」程度のぼくとは習慣の身につき方が全然違って、○○のときは大安が良いとか、××のときは先負はダメとか、すぐに出てくる。もちろんこうしたものに明確な根拠はない。そういった慣習レベルの話だけでなく、「○○さんちで事故や病気が続いているのは、先祖の供養をしっかりしていないからだ」とか、まったくもって迷信レベルの会話が声をひそめて交わされたりする。こんなことSNSに投稿したら……(以下自粛)。

 

わずか数十年でこの変わりようだからスゴイ。そのワケを、日本人が科学的、論理的に考えられるようになったから、と言えばとても良いことようなことのように思える。

 

でも、本当にみんなそんなに「科学的」になったのか?

 

実は、この「科学的」という言葉が話をややこしくしている。言いたいのは、みんなそんなに「科学する心」を持ち合わせているのか?ということだ。そう思ったのは、池澤夏樹著『科学する心』を読んだのがきっかけだ。

 

「科学する心」を忘れていないか

 

『科学する心』は、作家で詩人での池澤夏樹さんが文学のまなざしから「科学の営み」を考察するエッセー。科学の進歩著しい現代では、科学が一部の科学者の専売特許となってしまって、高度な科学技術によって構築された世界に住んでいながら、ほとんどの人は実は科学とほとんど接点をもっていない。本書の特徴は、そういう時代にあって、「科学する心」とは本来どういうものであるかを教えてくれるところにある。

 

たとえば、先日上皇になられた明仁さんのお話。平成上皇は皇居内に生息するタヌキの糞を研究している。「ムクノキやクサイチゴ、エノキなど8分類群の植物がタヌキの主要食物と判明」という記事が出たのだそう。本書はこう続ける。

 

さて、タヌキの糞の研究をしたのはたった今ならば今上、一か月後なら平成上皇、つまり明仁さんである。吹上御所の中でタヌキのトイレットの場所はわかっている。毎週日曜日の午後二時に自らそこにいって試料を採取された。二〇〇九年からの五年間で二百六十一回足を運び、百六十四個の糞を得たという(行幸などで留守の時は職員が代行)。
 なんと楽しい、心躍る日曜日の午後だろう。

 

この部分を読んで、ぼくは、はっとした。「ぼくは科学する心をほとんど持っていなかった」

 

科学の話に興味があり、日頃からそういう情報に触れているので、人よりもその手の話題に強いという自負があった。だから、ぼくは自分のことを「科学的」だと思っていた。科学的な知識があり、科学的な考え方ができると思っていた。でもそれは、単なる借り物の知識や考え方で、自分でそれを運用したことはほとんどない。ぼくはただ「科学的」なだけで、「科学する心」は持ち合わせていなかった。

 

だいたい「科学的」という言葉が良くない。よく考えてみると、「○○的」とは、○○そのものじゃないけど、それっぽい感じがするというときに多用される言葉だ。特に○○の部分を良いものとしてとらえているときが要注意だ。「グーグル的な考え方」とか「ドラクエ的な作品」など、そのものじゃなけど、それっぽいということで聞き手を納得させようとしている感がある。それは「科学的」も同じで、現代では黄門さまの印籠ごとき威光をまとう「科学」の権威を借りようとする意図がそこには見え隠れする。だから、商品のうたい文句やブログの記事に「科学的」という言葉が氾濫する。

 

「ひかえよろう! ここにおわすは『科学的』に効果が証明された、○○にあらせられるぞ」

 

すると、科学的なぼくなんかは「ははー。科学的ということは素晴らしい」とイチコロだ。この姿勢にはまったく「科学的」なところがない。「科学はスバラシイ! 科学に間違いないのだから、みんな科学的でなければならないのダ! 科学的に確認されていないことは事実ではない! 根拠ない、データない、ソースないなんて、非科学的!」これじゃ、ほとんど科学教だ。そこには「科学する心」がない。これはもちろん誇張だけれど、科学技術が発展し、その必然として科学を絶対視する風潮が高じれば、逆説的に、「科学する心」が失われてしまうような気がしてならない。

 

初めのほうで自分の親世代を「非科学的」と断じたぼくだけれど、ふたを開けてみれば、中身は同じだった。「風習」を「科学」に置き換えただけで、自分ではとくに科学するわけでもなく、ただひたすら対象を妄信しているわけだ。

 

科学する心が失われていくの理由の一つは、学校教育だと思う。さんざん批判されている詰込み型の教育を、ぼく自身はそんな悪いと思ったことはないが、こと「科学する心」という点ではその意見に同意する。学校教育は、科学の先人たちの業績を事実としてインストールすることに最大の努力を払う。その結果、どんどんと「科学的」な人間が量産されるが、「科学する心」をもつ人間はなかなか生まれないのではないか。

 

あと、もう一つは科学が高度になりすぎていることも挙げられると思う。とにかく科学が発展しすぎて、もはや一般人にはついて行けない。スマホなんかはブラックボックス化が著しくて、もう魔法のよう。ここまで科学が一般人にはわからない領域に突入してしまうと、科学は一部の研究者たちに認められた活動で、一般人に許されているのはその成果を間接的に知ることだけ。そんな風に思える。だから、気がついたら科学する心をみずから手放してしまっている。自分なんかじゃ、とても手に負えない、と。そうして、「科学的」であることに甘んじることになるのではないか。

 

でも本書を読むと、科学は誰がやってもいいんだ、とわかる。べつに、新しい発見やすごい発明をしなければいけないわけじゃない。科学する心をもって、自分で観察して、実験して、考えればいいのだ。

 

じゃあ、何を科学すればいいのか?という疑問がとうぜん出てくる。自分の興味があること、好きなことでいいと思うが、ぼくの場合は、うちの猫たちがとってもいい対象になってくれそうだ。猫は身近な生き物だけど、よくわからないこともたくさんあるって、取り組み甲斐がある。自宅で猫を科学することについてはまた、おいおい語ってみたい。