猫の書斎2

本と猫のことを中心にいろいろと書きます

ファミコンは制限があるからよかった。だって想像をはたらかす余地があるんですもの

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『僕たちのゲーム史』


「あれっ? このゲームの画面、こんなんだっけ?」

 

最近、とあることでファミコンゲーム「ガシャポン戦士2」の画像検索をしていたときのことだ。今見ると、なんというか、記憶していたのよりもかなりシンプルで、おもしろくなさそう。はっきり言って、ショボい。でも当時、小学生だったぼくはこのゲームをめっちゃ楽しんだし、記憶ではもっときれいなグラフィックで、表現がいきいきしていたような気がする。予想以上に平面的な画面だ。

 

記憶の捏造か~? まあ、30年近くも前の思い出だから仕方ないか。と、そのときはそれで片づけたのだけれど、こういうことってよくある。思い出のゲームの画面を検索してみたら、「あれっ? こんなんだっけ?」ということが。

 

でも、なんで?

 

ファミコン発売から今まで、ゲームのグラフィックスや性能は日進月歩なわけで、ファミコン初期の作品の画面なんて、今からは考えられないくらいお粗末だ。だから、最近の基準で想定した「昔のゲーム」の画面が実際を上回っていた、ということは考えられる。

 

でも、ある本を読んで、もうちょっと違う角度から説明できるかも、と思うようになった。

 

それは、さやわか著『僕たちのゲーム史』だ。

 

物語の扱い方の変遷でゲーム史を振り返る

 

『僕たちのゲーム史』は、「『スーパーマリオブラザーズ』のようなゲームは、どうして生まれなくなったのだろう?」という疑問から本を始める。79年生まれ、ファミコン直撃世代のぼくには、シビれるテーマだ。そうそう、そういう話を聞きたいんだよ、という感じ。

 

さて、さやわか氏は『スーパーマリオブラザーズ』というとき、どういうゲームを想定しているのか。同書では、ゲームのハードを普及させるほどの大ヒット作で、社会現象になるようなゲームのことを指している。同じ世代の人が集まったら、共通して話せるテーマになりうる存在だ。それを調べる中で、さやわか氏はゲームの変わらない部分と変わっていく部分とを見出した。変わらない部分とは「ボタンを押すと反応すること」で、変わっていく部分とは「物語をどのように扱うか」。前者は完全にうなずける。ここ最近ではボダンの代わりにタッチパネルを使うことも増えたが、それも疑似的な「ボタン」だと考えれば成立する。では、後者は?

 

「物語をどのように扱うか」と言われても、はじめはピンとこない。そこで、同書にならってスーパーマリオブラザーズを例に挙げてみる。著者によると、スーマリは物語性を強調していたゲームだ。その証拠に、ゲームのマニュアルには「ピーチ姫がクッパにさらわれたので助けに行かねばならない……テレビの中のマリオはあなたです。このアドベンチャーエスト(遠征)を完結できるのは、あなただけなのです」と書かれているのだという。任天堂がこうアピールしたのには理由があって、実はスーパーマリオブラザーズが発売された80年代は、すでにアクションゲームの飽和がささやかれた時期だった。ぼくたちは未来人の特権として、その後さまざまなアクションゲームが発売されて、百花繚乱のていを示すようになるのを知っているから、「まだ始まっても、いねーよ」と突っこみたくなるが、どうもアクション飽和説は本当にあったらしい。日本ソフトバンクが発行していたゲーム雑誌『Beep』にこう書かれていた。

 

このタイプのゲーム〔アクションゲーム〕は、種々出尽くした感がありますが、これはところどころ新しい趣向を採り入れて、十分に楽しめるできばえになっています。

 

これは画面のドットを食べて回るタイプのファミコンのアクションゲーム『デビルワールド』についての記事だ。あの頃のゲームを知っている人にはわかると思うけれど、ファミコン初期のゲームって、ワンパターンで深みがなく、テレビ画面上でこんなことができたら面白いだろう、というアイデア一発勝負みたいなところがあった。ゲーム黎明期はそれでも楽しかった。テレビ画面の中のものを自分が動かすというだけで新鮮だったし、操作スキルが気持ちに追い付いていないので、つい進行方向に体が傾いたり、ジャンプのときにコントローラーをくいっくいっと振り上げてしまったりと、そのもどかしさがプレイ意欲を掻き立てたりした。でも、その時期を越すと、あとはもう単純にスキルを磨くだけのゲームになることが多かった。そういうマンネリを打破しようとして任天堂が導入したのが、物語性と謎探しだったのだ。スーパーマリオブラザーズはピーチ姫を助けるという大きなストーリーがあるだけではなかった。1upキノコが隠されていたり、何の変哲もない土管の上で十字キーの下を押すと地下ワールドに飛んだり、謎探しをする楽しみがあった。この本では、ゲームがこうした物語性を持つようになったのがスーパーマリオブラザーズのあたりからだという。

 

物語性はこれでいいとして、「物語をどのように扱うか」の「扱い」の部分にも説明が必要だ。その例としてわかりやすのは「ドラゴンクエスト」と「ファイナルファンタジー」の違いだ。どちらも言わずと知れた大作RPGシリーズだが、実は物語の扱い方に違いがある。昔のドラクエはプレーヤーが主人公になり替わるという側面が強かった。それは勇者がほとんどしゃべらないことに表れている。勇者はプレーヤー自身だから、画面の中で勝手にしゃべったら変なのだ。一方で、ファイナルファンタジーは4あたりからよくしゃべるようになった(と思う)。プレステに移行してからはそれが加速して、美麗なムービーで上映される物語をプレーヤーが眺めるという第三者的な要素が強くなった。「映画」の合間に、ダンジョンを探索したり、敵を倒したりするようになったのだ。これを「ボタンを押していれば、勝手に話が進む」と揶揄する向きもあった。ちなみに、ぼくもそう感じたくちで、プレステ以降のファイナルファンタジーには手を付けていなかったのだが、その理由がこの本ではっきりとわかった。

 

とまあ、そんな風に「物語をどう扱うか」という視点でゲームを分析すると、なかなか面白いのだ。同書は「ボタンを押すと反応する」ものの歴史を「物語をどのように扱うか」という視点で紐解くわけだが、ぼくは何か足りないような気がした。

 

というのも、ぼくは「マリオ」や「ドラクエ」をどうしてあんなにおもしろいと思ったのか、あの頃のゲームがどうしてあんなに輝いて見えるのか、を知りたかったのだ。でも、ゲーム史を俯瞰で見てもその答えは得られるはずはなかった。よく考えたら、何をどうおもしろいと思うか、何がどうして光り輝いて見えるかはきわめて個人的な探求だからだ。

 

ファミコンゲームに足りないものが実は最大の武器?

 

ここからは、個人的な経験をもとに上のギモンについて考えてみたい。

 

まず考えられるのが思い出の美化。これは多分に考えられる。たとえば、年配の方に昔食べておいしかったというものを推薦されて食べても首をかしげてしまう、ということがある。年配の方は「コレ、コレ、この味~」と嬉々として食べていても、こっちとしては、時代が進んでもっとおいしいものであふれている現代に急に古めかしい物を食べても、そんなに感心しない。おいしさも個人や世代で好みが変わるから一概には言えないが、客観的にいって、時代が進んで、料理の技術やレシピや材料も進化した現時点のおいしいものに比べると、昔のものはやはり洗練されていない。年配の方が「おいしー」と言っているのは、昔食べたとき「おいしい!」と思った記憶が再生されて思い出がスパイスされる分、味が増幅されていると考えられそうだ。はっきり言えば、思い出バイアスがかかっているのだと思う。

 

それと同じことが、ゲームにも当てはまりそうだ。名作と名高いスーパーマリオブラザーズ3とスイッチのシリーズ最新作とを比べると、客観的に見たら最新作のほうがすぐれているのに、ぼくをふくめ古参プレーヤーは、「やっぱマリオ3はおもしろいなあ、グラフィックじゃないんだよ」とか言ってしまうかもしれない。実際、プレステが出たころ、ゲーム機の高性能化が著しかったときは、そういうことを言っていた。

 

でも、これを思い出の美化ということだけでは、片付けられないとも思う。だって、あれだけ貧弱なグラフィックスでも夢中になれたんだから、そこには、見た目じゃない本質的な部分に人を引き付ける要素があったはずだ。

 

そう考えたとき思いいたったのは、「貧弱なグラフィックスだからこそ」夢中になれたのではないかということだ。グラフィックスが粗くてシンプルで、リアルな表現はできず、象徴的な物しか描けなかったとき何が起きるか? 象徴的とは、人間を二頭身もないマリオやドラクエの勇者に見立てたり、地面をひび割れたパターンで表現したりすること。現実とはほど遠いシンプルな絵で表現されたとき、人間の脳は表現されていない物を勝手に想像し始めるのではないだろうか。

 

いちばん簡単な例を挙げると、「カニッツァの三角形」だ。パックマンのような一部が欠けた黒丸とV型の図形を配置しているだけなのに、書かれていない白い三角形が見えてしまう。はっきりと直接、表現されていなくても、うまい具合に情報が配置されれば、人間はないものを感じ取ってしまうのだ。

 

ゲームに寄せて例を挙げると「ゼビウス」がある。ゼビウスはアーケードとファミコンの初期のシューティングゲーム。伝説のゲームと称されるゼビウスの何がそれまでのゲームと違ったのかといえば、その物語性である。ナスカの地上絵といった物語性のある背景が描かれるだけでなく、敵の動きに物語性が「感じられる」。たとえば、敵が攻撃をせずに帰っていったり、敵機が普通の飛行機ではありえない動きをしたり、敵の武器がだんだん強くなっていったりする。すると、プレーヤーは、「あの敵は偵察に来た」とか、「あの敵機は無人に違いない」とか「こっちの前進に合わせて武器を進化させてる」とか、おのずと感じられるようになる。そんなことは誰も説明していない。ただの敵機の動きだけで、そこまで想像が働いてしまう。そこにあるのは単純なストーリーではなく、「世界観」だと思う。ゼビウスがつくりだす世界観に反応し、想像が勝手に動きだす。すると、そこそこのきれいなグラフィックスなどではとうてい表現できないような空想が頭の中で構築されていくのではないだろうか。

 

はじめてドラクエ3をプレイした時、アリアハン近くの橋を渡るだけで怖かった。それは、戦闘に切り替わるときの、心をかき乱すような効果音とモンスターの存在、バトルでHPが減り、減り続けると最後には死に、全滅に至るというゲームシステム、ちらつく魔王の存在と世界の終焉。こうした世界観によって、一気にゲームに引きこまれた。パーティや装備を整えて、やっとフィールドに出たら、どう戦ったらいいのかわからずに敵に倒される。初回はそのくらいで子供のゲーム時間は終わる。すると、もう想像するしかなくなる。次にプレーするまで、どんどん想像が膨らむ。スライムはいいとして、ウサギこえー、と。そのとき、ファミコンの絵で想像するのは逆に難しく、むしろ頭の中で、生き生きとしたアニメーションで想像することになる。そうなると、ぼくにとってドラクエは、ドット絵で表現された、ほとんど記号のようなキャラクターや静止画のモンスター、ただの地図にしか見えないフィールド画面で構成される味気ないものではなくなる。橋までがすごく遠く感じられる。塔なんて内海を隔ててかすんで見える。町の東側は高い山々が壁のようにそびえている。

 

ここまでで、冒頭の「あれっ? このゲームの画面、こんなんだっけ?」にある程度の回答が得られたのではないか。ファミコンのシンプルな画面を想像力が美しく描き変えていたのだ。でも、想像力が補強するのは画面だけじゃないような気がする。「ファミコンの頃のゲームの方がおもしろかった」という向きにも、貧弱なグラフィックスの副産物として想像力がフル稼働して、プレーの面白さが倍加していた、という説明がつけられそうだ。

 

映画「エイリアン」と「エイリアン3」を比べると、前者の方が格段に面白い(と思う)のだが、この差も想像力で説明できると思う。1の方は、とにかく、エイリアンそのものがなかなか画面に出てこない。やっと出た、と思ったら、画面の端っこをちょこと横切ったりするだけだ。そうなってくると、「なに、なに、コワいけど、もっと見たい」と思うのだが、それでもなかなか出てこない。それよりもリプリーやほかの船員たちの感情や反応の方が細かく描かれる。そこまで興味を掻き立てられながら、エイリアンが出てこないので、いやが上にもエイリアン登場に対する期待が高まる。しかも、正体がわからないだけに、得体のしれない生き物に侵入されている恐怖が膨らむ。ここでも、描かれていないからこそ、想像力が勝手に働きはじめる。

 

しかし3になると、一転、エイリアンがどんどん出てくるようになる。もはや撃ちまくりサバゲーみたいな様相をていする。エイリアンは恐怖を掻き立てる存在ではなく、「わっ、ビックリした」というような陳腐なものになってしまう。1は異様な状況下の恐怖を描いたが、3はエイリアンをそのものを描いてしまったのだ。多分だけれど、1はあまり予算がなかったのではないだろうか。エイリアンの模型をたくさん作るお金がなかったから、必要最小限の模型だけを作って、船員の心理ドラマで時間を埋めた。それによって、観客になかなか現れないエイリアンに対する恐怖を植え付けるのに成功した。3以降はシリーズが大作になったため、潤沢な予算がつき、いかにリアルでグロテスクなエイリアンを作れるかという映像美の方に走ってしまったのではないだろうか。

 

この想像力のはたらきについては『赤毛のアン』でみごとに描かれている。アンが、友達のダイアナの叔母ジョセフィン・バーリーの館に泊まって、あこがれていた豪華な部屋や調度品に囲まれたときのシーンだ。アンはこう言った。

 

あたし、こういったものをずっと夢に描いてきたわ。でも。いざとなると居心地がいい、ってわけにはいかないみたいね。この部屋には、なにもかもそろっていて、それがみんな素晴らしいものだから、想像をはたらかす余地がないわ。貧しくて、想像をすることがたくさんあるというもの幸せなことかもしれないわね。

 

ぼくたちは、想像の余地があるとき、つよく「楽しい」と思うのかもしれない。昔は技術や予算の面で貧しかったから、想像をはたらかす余地がふんだんに残されたゲームがいっぱいあった。技術が進歩して、なんでもCGで描けるようになった時代では、想像をはたらかす余地を意図的に作る必要が出てきた。それをわきまえずに、美麗なグラフィックスを追求した結果、ある時期からゲームが面白くなくなったと言われるようになったのではないだろうか。