猫の書斎2

本と猫のことを中心にいろいろと書きます

物語の本質は明確に語られない「真実」にある

 

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『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』

本書は、良い物語が良い物語である理由を、シナリオのプロが解説した本だ。


著者のロバート・マッキーは脚本家や小説家にシナリオの指導を30年以上おこなっており、門下生からはアカデミー賞受賞者が60人以上出ているという、とんでもない実績を持つ人物。本書テーマにとっては、これ以上ないというほどうってつけだ。
ぼくは別に脚本家や小説家を目指しているわけではないけれど、日頃からおもしろい映画とおもしろくない映画では何がどう違うのかという疑問を持っていたので本書を手に取ったのだが、大当たりだった。


本書を読むと、次のようなことがわかってくる。

 

  • 映画や小説などのストーリーの本質(あらすじを話したりまとめたりしてもストーリーにならない)
  • なぜおもしろい映画はおもしろいのか、なぜつまらない映画はつまらないのか、その論理的な理由


基本的に映画の脚本についての本だが、小説やノンフィクションなどストーリーを要素に含むものにも当てはまる原則が丁寧に解説されている。


ここでは、本書に書かれていたストーリーの本質を、映画『男はつらいよ』シリーズを例にして考えてみたい。


寅さんのストーリーを分析してみる


寅さんはいい歳して結婚もせず、家もなく、安定した仕事も持たず、日本各地を旅しながら、怪しい品物を通行人に売って、なんとかその日暮らしをしているフーテンだ。『男はつらいよ』シリーズは基本的に、毎回、ほぼ同じあらすじで展開する。

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ファミコンは制限があるからよかった。だって想像をはたらかす余地があるんですもの

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『僕たちのゲーム史』


「あれっ? このゲームの画面、こんなんだっけ?」

 

最近、とあることでファミコンゲーム「ガシャポン戦士2」の画像検索をしていたときのことだ。今見ると、なんというか、記憶していたのよりもかなりシンプルで、おもしろくなさそう。はっきり言って、ショボい。でも当時、小学生だったぼくはこのゲームをめっちゃ楽しんだし、記憶ではもっときれいなグラフィックで、表現がいきいきしていたような気がする。予想以上に平面的な画面だ。

 

記憶の捏造か~? まあ、30年近くも前の思い出だから仕方ないか。と、そのときはそれで片づけたのだけれど、こういうことってよくある。思い出のゲームの画面を検索してみたら、「あれっ? こんなんだっけ?」ということが。

 

でも、なんで?

 

ファミコン発売から今まで、ゲームのグラフィックスや性能は日進月歩なわけで、ファミコン初期の作品の画面なんて、今からは考えられないくらいお粗末だ。だから、最近の基準で想定した「昔のゲーム」の画面が実際を上回っていた、ということは考えられる。

 

でも、ある本を読んで、もうちょっと違う角度から説明できるかも、と思うようになった。

 

それは、さやわか著『僕たちのゲーム史』だ。

 

物語の扱い方の変遷でゲーム史を振り返る

 

『僕たちのゲーム史』は、「『スーパーマリオブラザーズ』のようなゲームは、どうして生まれなくなったのだろう?」という疑問から本を始める。79年生まれ、ファミコン直撃世代のぼくには、シビれるテーマだ。そうそう、そういう話を聞きたいんだよ、という感じ。

 

さて、さやわか氏は『スーパーマリオブラザーズ』というとき、どういうゲームを想定しているのか。同書では、ゲームのハードを普及させるほどの大ヒット作で、社会現象になるようなゲームのことを指している。同じ世代の人が集まったら、共通して話せるテーマになりうる存在だ。それを調べる中で、さやわか氏はゲームの変わらない部分と変わっていく部分とを見出した。変わらない部分とは「ボタンを押すと反応すること」で、変わっていく部分とは「物語をどのように扱うか」。前者は完全にうなずける。ここ最近ではボダンの代わりにタッチパネルを使うことも増えたが、それも疑似的な「ボタン」だと考えれば成立する。では、後者は? 続きを読む

93年発行『ゲーム・オーバー』は令和元年に読むといろいろと感慨深い一冊

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『ゲーム・オーバー』

『ゲーム・オーバー』デイヴィッド・シェフ著、篠原慎訳(角川書店


任天堂が、アップルやグーグルやマイクロソフトのような、情報産業を牛耳る世界的IT企業の一社だったとしたら……

 

これは突拍子もない想定に思われるかもしれない。だって、任天堂ってゲームメーカーだし。オモチャ屋だし。確か任天堂も、自らの製品を多目的なコンピュータとしてではなく、あくまでゲーム機と位置付けていたはず(少なくとも、ぼくがゲーム機を買いまくっていた2000年代は)。

 

しかし、上記の可能性を真剣に検討した本がある。1993年に発行されたデイヴィット・シェフ著『ゲーム・オーバー』だ。

 

93年って……、26年も前やん!「今さら何?」とあなどることなかれ。ファミコン発売からの約10年という短い期間に、電子ゲームでちょっとした成功を収めたオモチャ屋から急激な成長を遂げ、世界的ゲームメーカーとして日本だけでなくアメリカ、ヨーロッパを席捲した任天堂の怒涛のサクセスストーリーを丁寧に描いた素晴らしい本だ。しかも、人間ドラマを軸にした展開は小説のようで、読者を魅了する。当時リアルタイムでファミコンをプレーしていた人はまったく古さを感じないはず(丁寧な描写のおかげで、読書に没頭していると数年前の出来事のように思えてくる)。当時の時代背景とともに同社の歴史を詳しい数字や人物描写でつづった本書は資料的価値が高く、若い任天堂ファンにとっても必読の書と言える。

 

だけどここで注目したいのは、四半世紀前の情報産業、エレクトロニクス産業の分析と当時描かれていた将来展望を、未来人の目からメタ分析できるという楽しい特典がついている点だ(もちろん、これは発行当初の本書の目論見ではないが)。

 

任天堂=侵略者という視点

 

本書を読み解くうえで大切のは、著者の視点だ。本書のカバー袖には下のような紹介文がある。

 

世界中の子供たちを虜にし、わずか900人足らずの人数で日本第三位の利益をあげる、任天堂。その勢いにはコンピュータの巨人IBMもマルチメディアの先駆けアップル・コンピュータも怯えている。京都の一玩具会社にすぎなかった任天堂は、いかにして世界を征服したのか。日本とはことごとく市場の異なるアメリカで、ヨーロッパで大成功を収めたのはなぜか。ドラマティックなまでの任天堂の成功を、膨大な取材をもとに詳らかにした渾身のノンフィクション。 

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